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書評: 日本の思想

Amazonのレビューを眺めてから本を購入する、という悪癖があるのだけど、とある本のレビューの中に、日本思想論を語るに外せない本として、丸山真男の「日本の思想」が挙げられていたので読んでみた。全体的に難解だったが、日本人として読んで置いた方が良い一冊のような気がする。あと、難解な本を読む時こそKindleのハイライト機能が役立つというのも今回の学び。 

本書は「I 日本の思想」「Ⅱ 近代日本の思想と文学」「III 思想のあり方について」「Ⅳ 「である」ことと「する」こと」の4章から構成されるのだが、Ⅱは読むにあたって必要とされる知識が私に欠けていたため、今回は残念ながら読了できなかった。以下各章ごとの感想及び抜粋。

「I 日本の思想」

日本の思想というタイトルと一見矛盾するが、日本には物事を考える上での機軸というものが形成されず、それ故他に類を見ないカオスな文化が形成されてきた、という話。I章とII章は特に難解であり、一読しただけでは理解できなかった点も多々あるが、個人的に面白かったのは下記2点。

  • 日本には、自己を相対化するための「機軸」が存在しておらず、それ故外部から入ってきた思想/文化を、内部に取り入れるのではなく「そのまま」併存させてきた

「一定の時間的順序で入って来たいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう」

「まずそれを徹底的に自己と異るものと措定してこれに対面するという心構えの稀薄さ、その意味でのもの分りのよさから生まれる安易な接合の「伝統」が、かえって何ものをも伝統化しないという点が大事」

「 神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、さきにのべた日本の思想的「伝統」を集約的に表現していることはいうまでもなかろう。絶対者がなく独自な仕方で世界を論理的規範的に整序する「道」が形成されなかったからこそ、それは外来イデオロギーの感染にたいして無装備だった」

「多様な思想が内面的に交わるならばそこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけ」

  • 明治時代に機軸として導入された國體(こくたい、天皇を中心とした秩序)すらも、むしろ天皇制それ自体がある種の雑居性を含んでいたがために、結局は機軸と成り得なかった

「(補足: 複数の権利主体が存在することに対して)決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。」

「國體が雑居性の「伝統」自体を自らの実体としたために、それは私達の思想を実質的に整序する原理としてではなく、むしろ、否定的な同質化(異端の排除)作用の面でだけ強力に働き、人格的主体自由な認識主体の意味でも、倫理的な責任主体の意味でも、また秩序形成の主体の意味でもの確立にとって決定的な桎梏となる運命をはじめから内包していた」

特に前者は、日本人に多く見られる(と個人的には感じている)「スタンスを取れない」に通じる物があるような気がした。海外の人がどのような機軸を持っているのかはわからないのだけど、社会的な機軸としてはやはり宗教の存在が一番大きいのかもしれない(宗教そのものが機軸として適切かどうかという議論もあるだろうが)。日本における機軸の欠落が、どれくらい個人の機軸の有無に影響しているのかも気になる所(「いき」の構造とか山本七平の「空気の研究」とか読めば良いのだろうか...)。

「III 思想のあり方について」

印象に残ったのは下記2点。

  • 我々は他者そのものではなく他者の「イメージ」を基に世界を観ている
  • 日本の学問体系は、海外におけるササラ型学問体系の端の部分を切り取って持ってきたため「タコツボ型」となっており、それ故各学問領域を超えた議論を可能にする共通基盤が存在していない事も、「イメージの構築」を助長している

「大小無数の原物は、とうてい自分についてのイメージが、自分から離れてひとり歩きし、原物よりもずっとリアリティーを具えるようになる現象を阻止することができない」

「初めから非常に個別化された、専門化された形態で近代の学問が入ってきたために、学者というものはそういう意味の専門家である、個別化された学問の研究者であるということが、少くも学界では当然の前提になっている」

 私自身は"学問"と呼べるほどの何かを収めたわけではないので、後者に関して特に何か言えるわけではないのだけど、領域同士の垣根を取り払うような活動があまりうまく行っている印象は確かにない気がする(そして、その理由は領域同士の共通言語が存在しない、からなのかもしれない)。具体的な例でふと思いついたのは、人工知能研究促進について何故か文部科学省/総務省/経産省が独立して動いている点だろうか。これはこれで別途記事を書いてみたい。

「Ⅳ 「である」ことと「する」こと」

 この章に関しては正直まだきちんと理解できていなくて、人間の如何だけでなく、社会における物事についても、この「to be」思考がずっと適用されてきており、そこに「to do」思考が入ってきた事によって、非常にカオスなことになっている…というのが一読目の理解。

儒教道徳が典型的な「である」モラルであり、儒教を生んだ社会、また儒教的な道徳が人間関係のカナメと考えられている社会が、典型的な「である」社会だということを物語っております」

「自分は自由であると信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになる」

 

日本の思想 (岩波新書)

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「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

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「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

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