What drives me.

between anthropology, primatology and management of technology

生き物らしさ

人間とは何か、という問からは少し外れてしまうけれど、一つ小さい頃に熱中していたものを思い出したのでつらつらと書いてみようと思う。

今でもよくCMなんかで見かけるけれど、「毎月雑誌を買うと部品がついてきて、最終的にはロボットができる」という雑誌に、10年ほど前にはまっていた。その雑誌には部品の他に小冊子がついていたのだけど、その中にでてきた「アニマトロニクス」というものにひどく心惹かれていたのを覚えている。

アニマトロニクスというのは、生物を模したロボットを使った撮影技術のことで、CGが発達してしてからあまり見かけなくなったものの、現在でも使われているらしい。メイキングムービーの中ではロボットにしか見えないけれど、映画ではまるで生きているように見える。大きくなったらアニマトロニクス用ロボットを作りたいと考えていた時期もあった。

さて、この"生きているみたい"という感覚はどこから生まれるんだろうか。外見だろうか。だけど、どんなに精巧なぬいぐるみも生きているようには見えないし、元々"生きて"いた剥製も、動かなければただのモノに過ぎない。「動かなければ」。動きが生き物らしさを規定しているのだろうか。

少し話が飛ぶけれど、複雑系の研究者である金子邦彦が書いた「カオスの紡ぐ夢の中で」という本の中で、カオスが無くなってしまった世界の話がでてくる。カオスに関する説明はここでは割愛するけれど、ざっくりと言えばランダムとかゆらぎとかいうキーワードで近似できる。カオスが無くなった世界では、押し寄せる波も、散っていく花びらの軌道も、蝶の飛び方も、全て規則正しくなってしまうのだとか。

生き物らしさは動きによって規定されるんじゃないか、と思ったけれど、もっと踏み込んで言えば「ゆらぎ」を含んだ動きこそが、むしろ「ゆらぎ」こそが生き物らしさを規定しているのかもしれない。生物の定義として「自己複製」がよく挙げられるけども、この自己複製もある種のゆらぎを含んでいるような気がする。増えるかもしれないし、増えないかもしれない。

取りとめが無くなってしまったけれど。

カオスの紡ぐ夢の中で (〈数理を愉しむ〉シリーズ) (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

カオスの紡ぐ夢の中で (〈数理を愉しむ〉シリーズ) (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)