What drives me.

between anthropology, primatology and management of technology

意識と人工知能の狭間

ここ最近立て続けに人工知能モノの本・映画(ZendegiEx machina)を手に取ったせいか、人間の意識と人工知能の違いについてぼんやりと考えている。前者は余命を宣告された主人公が、残された息子のために”Zendegi”というゲームの中に自分の仮想人格を作ろうとする話、後者は”Blue Book” というFace Bookを捩った企業に勤める青年が、ある日山奥の研究所に連れていかれ、AvaというAIを搭載した女性のアンドロイドに惹かれていく話(日本未公開)。

AIが人間の仕事をいつか奪う、というストーリーは散々語りつくされてきたけれど、人工知能が人間の思考回路をそのまま再現する-無理やり言い換えるなら人工知能が意識と同一化するという意見については未だに腑に落ちていない。ひょっとしたら専門家にとってはその議論自体が馬鹿げているのかもしれないけれど、あえて意識と人工知能の違いを考えるとどうなるのかについて、備忘録的に。

我々が何か意思決定をする際は、経験則に基づいた判断をする場合がほとんどだろう(少なくとも私自身はそうだ)。仮にそれを、経験則に基づいて構成されたモデルが我々の頭の中にあり、インプット(人生における重要な論点)を入れると、アウトプット(適切だと思われる意思決定)が返ってくるプロセスとする。人工知能の行為(能動的ではないから行為とするのは相応しくない、のかもしれない)についても、実際の人格から作られた仮想人格(≒意思決定モデル)に対して、話しかけたりインタラクションをすると、自然な答えが返ってくるプロセスという風に見なせば、人間の意識に限りなく近いモデルのような気がしてくる。何が違うのだろう。

話が少し飛ぶけれど、過去に霊長類学者の松沢さんの講演を聞いた際に、

チンパンジーは他者や人間を見ながら様々な行為を学習できる。だけど、空白を埋める、すなわち「想像する」という行為ができない。例えば、輪郭だけが書かれている絵を見せられた時、人間の子供は顔を補間できるけれど、チンパンジーは輪郭をなぞるだけだそうだ。松沢さんは、「チンパンジーは目の前のことしか理解できないけれど、人間は今よりもずっと先のことを想像できる」

と言っていたのを思い出して、なんだか人工知能に近いな、と思った。何故そう思うのかはわからないけれど、人間の意識がもたらす反応は「線」で、人工知能は「点」-言い換えるならば、対話の中にあるコンテクストを理解しているかどうか、という事になるのだろうか。現在の人工知能は技術が足りなくて「線」を実現し得ていないだけだとすれば、腑に落ちていないと言いつつも、近い将来人工知能は意識に限りなく近いものになっていくのかもしれない(思い返してみればherという映画はそんなストーリーだった)。

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)

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